人生をコンテンツ化する。

頭の中に浮かんだことを勢いにまかせてすごく適当に書く。

ゴーストライターはいるし、多くの本は彼らが書いている。

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Pen and Paper
Pen and Paper / qisur


出版社に入社して一番驚いたのは、世の中はゴーストライターが書いた本であふれている、ということでした。


俺は別にゴーストライターを批判するつもりはないし、むしろこれまでに何度も助けられたし、お世話にもなっています。
だけど最近、明らかにゴーストライターが書いているにもかかわらず、著者が執筆したと思い込んでいるブログやアマゾンレビューを見かけるので、ちょっとこの記事を書きたくなりました。


とはいえ、俺も昔は都市伝説だと思っていました。昔、『プラトニック・セックス』を飯島愛本人が執筆したのか、それともゴーストライターが執筆したのか論争になりましたが、当時の俺は「ゴーストなんているわけねえだろ」と信じていたんです。
ところが、入社早々に行われた研修で、上司から自社の刊行書籍の8〜9割がゴーストライターによって書かれているという話を聞き、驚きました。この会社だけではありません。現在、ノンフィクションとして市場に出回っている本の多くがそうだといいます。とくに自己啓発ジャンルではその傾向が顕著です。
そのときは半信半疑でしたが、ある程度経験を積んだ今、書店を見回してみると確かに上司の言う通りだなと思えます。


なぜ著者本人が執筆せず、ゴーストライターに書かせるのか?
その理由はいくつかあります。たとえば、多忙。あるいは単純に、文章がうまくないからです。


前者の例は、自身のビジネスモデルに著書の執筆を組み込んでしまっているような人は別として、自己啓発系の著者は他に本業を持っていることが多いからでしょう。なかでも、企業を経営している人が多いです。
執筆を依頼した時期にそちら側が多忙だったりすると、時間がないのでゴーストライターで、ということになります。


一方後者は、それほど消極的な理由ではありません。
世の中には面白い話、とても人を引きつける話ができるのに文章になると途端に面白くなくなってしまう人がいます。
これは頭の回転スピードに執筆スピードが追いついていないためです。伝えたいことはあるのにボキャブラリーが足りないせいでそれをうまく言い表せない状態に似ています。
彼らは講演会やセミナーなどでは抜群に面白い。それを目にした編集者が「この人に本を書いてもらいたい!」と思ってしまうほどに。でも、実際に依頼してサンプル原稿を執筆してもらうと、「あれ?」となる。そんなときゴーストライターの出番となるわけです。
しゃべりが面白いならしゃべりに徹してもらい、それを文字にするのは文章のプロであるライターに、という発想。能力に秀でた者同士が足りない部分を補いあう、といった側面があります。


と、ここまで説明しましたが、実は本当の理由は別にあります。
それは「著者が書きたいことと読者が読みたいことは違う」から。
言い方は悪いけれど、著者に書かせると自分が書きたいことを自分が書きたいように書きます。これは著者に限らず誰しもがそうだけれど、こと出版に関してはそれだと読者が買ってくれないので困ります。
なんでこんなことが起きるのかというと、実は著者自身の、あるいは著者が持っているコンテンツの魅力を著者自身がわかっていなかったり、著者自身は面白くないと思っている部分を読者は面白いと感じるからでしょう。自分のことを一番わかっていないのは、意外と自分だったりするのかもしれません。
読者はAが読みたいのに著者はBを書こうとする。そうさせないためには、著者に言って聞かせるという方法もあるけれど、それにはやはり限界があります。そこで、文章のプロで、なおかつ第三者としての視点を持ち合わせたゴーストライターに書いてもらうのが最適だ、ということになるんです。
だから、ゴーストライターというのは著者の(コンテンツの)魅力を読者へ橋渡しする人と言えるかもしれません。


そんなわけで、あなたが思っている以上にゴーストライターの書いた本が多くあり、思っている以上にゴーストライターの役割は大きいのです。